What I am.

What I am.とは『私の人となり』を表す英語であると記憶している。

これからこのホームページを作成している佐々木真悟の人となりについて表現しようと考えている。

ここで私のこだわりを少しだけ述べてみたい。

私は文章上で、抽象的な“〜と思う”という表現は極力使わないで“〜と考える”とするように心がけている。

“思う”という表現がなにか心の中でしっくりこないからだ。

それと“ですます調”より“だ、である調”の方が好きなのであるが、私が建設コンサルタント時代に作成した検討書の文章に対して当時の上司から「お前の文章は高尚過ぎて硬い感じがする。」との指摘をうけてから“ですます調”の文章にするように心がけている。

しかし、好きな文体は、やはり“だ、である調”であるので、何か書き物があると無意識のうちに好きな文体で書き綴っているので、それに気がつくとワープロの置換機能を使って“ですます調”に変換することがよくある。

自分で言うのもなんであるが、私は、少し、いやとてもへそ曲がりでこだわりの強いヤツである。

これより私佐々木真悟の人となりを色々な観点と興味深いエピソードをとおして説明したいと無謀にも考えているので、時間に余裕がある人は、お付き合い願いたい。

それでは、はじまり、はじまり・・・・・(暗転)
以前巷で流行っていたNHKの連続テレビ小説『ちりとてちん』にあやかって、落語風にアレンジしてみました。(ですます調かよー)が、たぶん落語風は、はじめの部分だけでしょう。(予想)

(お囃子)舞台中央に準備された座布団の方へ羽織をまとった・・ではなく、背広とネクタイ姿の佐々木真悟が現れて座布団を横に置いて、あぐらをかいて座る。(エラク態度のでかいヤツだ、というよりも正座は足がしびれて長く続かないのである。)

日は私のくだらない自分史を聴くためにお集まりくださった、暇な・・いや、失礼。

高尚な方々に心よりありがたく御礼申し上げます。

しばしの間お付き合い願います。

この私ですが、生れ落ちましたのが日本国のシベリヤと言われている島根県でございます。

今では日本で一二を争う老人県であり、県民のほぼ70%が建設業関連の仕事に携わっていると言われる特異なところでございますが、その島根県の県庁所在地、松江市の日本赤十字病院にて昭和39年の1月に産声を上げたのでございます。

生後8ケ月(写真参照)にもなりますと目鼻立ちもしかっりとするのでございますが、生まれたてのホヤホヤの時は、新生児室はサルの軍団と化して腹が減った、お尻が濡れて気持ちが悪いとうるさく騒いでおります。足の裏に苗字のササキと書かれ、ぎゃーぎゃー騒いでいる私でございました。

定期の時間になると看護婦がヒョイと慣れた手つきで拾い上げ、母のところに授乳のために連れて行くのです。

が、この日だけは違っていました。新生児室から私の母のところに連れて行かれたのは、別のササキと足の裏に書かれたサルでした。

「授乳の時間なので連れて来ました。」と母の腕に渡されたのは、私より2日だけ早く生まれたササキくんだったのです。

「看護婦さん、どこか顔が違うみたいなんですが・・・。」とまじまじと顔を見つめる母を見て、「あ、すぐに取り換えて来ます。」と言うが早いか看護婦は、サルの軍団の部屋にまっしぐら、真剣な眼差しで、足の裏を見つめるのであります。

「あ、いたいた。」と、つまみ上げられ宅配便。

「先ほどは失礼いたしました。ご注文の赤ちゃんはこちらで間違いございませんね。」と母に渡す看護婦に、「あ、この顔です。」と言ったか言わなかったか。

当時のことですから笑い話ですみますが、今じゃ大きな責任問題。本当にあったら110番、こわ〜い話でございます。


これが生後8ケ月の私でございます。

病院から無事に退院いたしますと弱肉強食の世界へ。

私の家は、なんと9人家族でありまして、大きな鍋で大根などを煮たりしたものなら一日でなくなる、食べ盛り、育ち盛りのおじやおばが居りました。

母は若くして(二十歳で)そんなごった煮のような家に嫁いできたのでございます。

私にとってはおじやおばですが、嫁いで来たときの母にとっては義理の妹達と弟。やつらにゃ変った性癖がありまして、おやすみなさいと床に入ると、夜な夜なムクっと起き上がり、姉妹同士で話を始めるのでございます。

母にとっては、みんな眠っているはずの隣の部屋から薄気味悪い話し声。おそるおそる障子をあけると、フトンの上で座り込み、眠ったままで会話をしているのでございます。

「その時は気持ち悪くって、ぞーっとしたものよ。」と思い出しては話する母の方が怖ろしい。
と感じるのは私だけでございましょうか。

話は変りまして、当時の私には祖父がおりまして、曽祖父も生きておりました。そして父も叔父(おじ)も居りまして、男達は大の酒好きで、家族は代々の大酒飲みの家系でございました。

祝いがあれば酒を飲み、腹が立っても酒を飲む。アル中の権化(ごんげ)みたいなやつらでした。
という私も誕生の祝いに祖父の膝の上に乗りまして、美味そうに口元に運ばれる透明な液体に興味をもちました。

そして見ているだけでは我慢ができず、俺にも一口くれないかと、はやる気持ちが祖父の手をぐぐっと引き寄す誕生日。証拠写真も残っております。


なんと誕生の祝いの席にて、杯を持った祖父の手元を・・・。
今は亡き祖父の義弘との楽しい晩酌のひとコマでございます。

(事件簿より)
4歳になって(旧)国道431号線横断中、普通自動車に轢かれる、4時間意識不明、右大腿骨(ダイタイコツ)骨折、全治6ヶ月、手術の時全身麻酔が効かないというアクシデントあり。(たぶん晩酌のアルコールのせいだったと考える。)

右足大腿部(太腿11針+7針=18針縫合)後遺症としてビッコになる。

ある程度身体的な苦痛から解放されたときのワンショット
(足先までギブスで固められていた。)

私も成長して幼稚園に通うようになりました。

園児のなかには、やはりいじめっ子がおりまして、いつも自己表現が苦手で無口で気弱な、どちらかと言うといじめられっ子の私をいじめるのでございます。

そんな彼らに何もできず、悔しいおもいを泣きながら祖母に話すと・・、高血圧で心臓には興奮することがよくないのにテレビでのプロレス観戦が大好きであった祖母は、人一倍の負けず嫌い、「そんないじめっ子は、お前が殴っちゃれ。」と真顔で毎日毎日、私に語りかけるのでございます。

おもいのこもった語りかけは、アファーメーションによる洗脳とも言うべきでしょうか、心の深いところの潜在意識にすり込まれていったのでしょう。

ある日、園のテラスでそれは突然起こりました。園児のなかで、もっとも凶暴ないじめっ子が私に迫ってきていました。

「おい、お前・・・。」と話しながら、えり首をつかもうとした瞬間。

その子の顔面に、なぜかパンチが炸裂していたのであります。

私の握りこぶしをその子の顔面にお見舞いしていたのです。少しだけ時間が止まったように感じました。

ですが、すぐに今まで威張っていたいじめっ子はワッーと大きな声で泣きはじめたではありませんか。

「こんなことで泣くのか。」と心の中の誰かと話している自分がいたことを覚えています。

それからの私は、いじめっ子であった先輩からも恐れられる正義の味方?として生まれ変わったのでした。

この出来事が私の人生に何かと大きな影響力をおよぼすことになるのですが・・・・。

そんな幼稚園生も体調がすぐれず、2日ほど休んでしまいました。

回復して登園すると、友達が「なんで2日も休んだの。」と訊ねてきました。

『2日』から連想された私の回答は、「二日酔いだったんだ。」というものでした。

「ふ〜ん、そうだったんだ。」と彼なりに納得して私のもとから離れていきました。

やはり事件は起こりました。PTAの話合いで「しんご君のお母様はいらっしゃいますか。」と言われ、出席していた母が立ち上がると「しんご君は先日二日酔いで休まれたとうかがいましたが、どういうことですか。」と担当の教師から質問されたのです。隠ぺいすべき事実もあったのでしょう、母もしどろもどろになってしまったそうです。

母からPTAの話合いについて聞かされて、私が直接教師に告げたわけでもないのに、口コミは怖ろしいものだと幼心に感じました。

そして、『口は災いのもと』思いつきをだれかれに話すべきではない。と強く心に感じました。

この事件以来、母はPTAの会合など学校関連の集会には出来る限り欠席するようになっりました。

小学生になりますと1学年31人のクラスでした。木造二階建ての中庭のある素晴らしく古い校舎に通うことになったのです。

私の身体はあまり大きいほうではなく、前から数えて3番目でありました。

しかし、クラスメイトは幼稚園の時から同じですから、怖いものはアル中の家族以外には、これといってありませんでした。

新入生の担任は、定年を迎えようとする女教諭でありました。その頃、母は化粧品会社の事務をしておりまして、私も化粧について少なからず興味がありました。

小学校の授業中に、担任の口元が気になって気になってしょうがなかった。授業終了後、先生に手招きして次のように耳元で囁きました。

「ちょっと、ちょっと先生、口紅が落ちていますよ。」

私にとっては、たったこれだけの話だったのですが、担任にとっては大きな衝撃を覚えたようなのです。

担任は母に「教員になって何十年、一度たりとも口紅が落ちているよ。

などと忠げるような生徒はいなかった。」と言ったそうです。

私は観察力があり、気付いたことを直接的にズケズケと言ってしまうTPOも考えない、デリカシーのない生徒であったと考えます。

小学2年生になって微熱が続きました。近くの●●医院で診察を受けると『風邪でしょう、お薬を出しておきます。』というものでした。

しかし、何日経っても改善しません。ついに総合病院での検査を受けました。

『今日、すぐに入院してください。』青天の霹靂(せいてんのへきれき)でした。

すぐさま小児科病棟に入院することになりました。病名は公定伝染病『しょう紅熱』でした。

現在この病気は、簡単な治療(飲み薬)により完治するものになりましたが、当時は隔離して自然治癒を待つしかないというものでした。

40度以上の高熱が何日も続き、脳に何らかの支障を来たすこともあり、死に至ることもあるというものでした。

私は幸いにも脳に支障をきたしたかもしれませんが、身体的には回復することができました。

しかし、高熱のため腎臓に支障を来たし入院を続ける必要がありました。

入院中は、小児科病棟では小学校の教科書を使って『算数、国語』などの科目の勉強が看護師によって行なわれました。

国語の勉強として『詩』を書いて新聞社に送ったりもしていました。

なんと私の作品『おなかのへる薬』は入選して大阪のラジオで放送されもしました。

しかし、算数で理解できない単元があり自分に嫌気がさしていました。

それは『分数』でした。「一つのものを二つに分けて、分けたものの一つを1/2(二分の一)と言います。コップ一杯に水が入っています。

コップの水を半分づつに分けて、半分の水は、1/2です。」このような説明がなされたのです。

でも、私の理解は及ばず、何度も何度も説明されても困惑するだけでした。

今なら分かるのですが、概念的な説明のみが先行したために脳がイメージによる理解に慣れてないためにオーバーヒートしたのだと考えます。

私は、自分の不甲斐なさに枕に涙して、疲れて眠ってしまいました。

だが、不思議なことが起こりました。2時間程して突然、理解の眼は開かれたのです。

「分かった。」と叫んで看護師を呼び出し、自分の分数に対する理解は正しいのかを確認しました。

私なりの説明をおこない「それで良いわよ!」という看護師の言葉で理解に対する確信がもてました。
と同時に算数が分かる科目として脳裏に深く刻み付けられました。

算数は得意であると思い込んだのです。

実はこの経験は、理解に対する大きなヒントになるものです。

右脳の使い方で詳しく述べることにします。

What I am.2 に続く・・・

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